では、始めましょう
ハイマート創立期のプログラムを見ると、気付く事が有ります。それは何度もハイドンのオラトリオが取り上げられていた事です。勿論それは、ピアノ伴奏によるものであり、抜粋の演奏であったはずですが、どうして何度も取り上げられたのでしょう?
よく「キリスト教徒でもないのに宗教曲なんて歌えない」などと言う人がいますね。多分、そう言う人にとって、宗教曲とは難しく、顔をしかめて歌うイメージなんでしょう。だってミサなんて「主よ、哀れみたまえ」から始まってますからね。
さて、「ハイドン交響曲」(中野博詞著)という本があります。「なんだ、交響曲の本なんかミサ曲と関係無いじゃないか」なんて言わないで、一寸その一部を抜書きしてみましょう。
心地よいまどろみは、さわやかに鳴り渡る教会の鐘に、淡く消えさってゆく。目に染みる草木の緑が、雪のヴェールを破って春の到来を告げる五月、南ドイツの古都アウグスブルクの日曜日の話である。
古い歴史を秘めた街並みにくりひろげられる安息日の光景は、旅人の目をとらえずにはおかない。着飾って教会に向かう市民の姿には生きる喜びが、神への感謝がみちあふれているのだ。厳粛なうちにも、華やかなミサの儀式に、日曜日の生活が始まる。会衆の敬虔な祈りの姿に、新たに始まる週日への期待と希望を感じるのは、著者ひとりだけであろうか。
日曜日の街は楽しい。晴れやかな顔で教会をあとにした市民たちが、レストランにビヤホールに、喫茶店に、思い思いの祝宴をもよおすのである。明るい日ざしの中に、ワインの栓がぬかれ、普段は謹厳なドイツ人の顔にも笑みがうかび、やがて歌声も聞こえてくる。まさに《四季》の世界なのである。
どうです?最後に出てきた《四季》とはハイドンのオラトリオ「四季」の事です。とっつき難い宗教曲というイメージから遠く離れてませんか?この文の前には、グリージンガーという人の言葉が引用されています。『ハイドンの宗教的態度は、陰鬱な懺悔ではなく、明るい、罪をゆるされた信頼にみちている。』
こんなミサなら歌ってみたいと思うでしょう?案外これがハイマートの先輩達にハイドンの曲を選ばせた理由ではないかと私は思うのです。


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